ずんぶん昔にデビュー作の「キッチン」を読んで感動してから、よしもとばななの小説はいくつか読んでいます。いつも思うけどこの人はあまり文章自体は上手くない。というかあまり練られていないのです。今回も本当にげんなりしながら読みました。作家でもなんでもない私が言うのもおこがましいですが、下手くそだなって(笑) でもいつも最後まで読みます。なぜならこの人はもとより、はっとするような心象描写で読者を引き込むタイプの作家(と勝手に思っているの)で、文章にははなから期待していないからです。
話の筋を簡単にいうと、主人公の女性が昔とある宗教団体に誘拐されたトラウマを抱える男性に恋をします。この男性はほとんど人との接触を絶っているのですが、彼と同じように複雑な家庭環境で育ち親を失くしてひとりぼっちの主人公にだけは次第に心を開いていきます。
小説の終盤に誘拐された過去をついに彼女に打ち明けるシーンの描写が絶妙で、彼は当時のことを以下のように語ります。
「誘拐されるってどういうことかわかる?誘拐した人たちを好きにならなくちゃいけないんだよ。そうしないと生きていけないんだ。」
彼は子供の頃に誘拐され、さらに記憶を消され、人目につかない土地でその宗教団体と共に瞑想などのトレーニングをしながらあるまとまった期間を過ごしていました。そしてちょっとしたきっかけで自分が誘拐されたことを思い出すと、当然脱走を思い立つのですが、奇妙なことにそこで仲良くなった友達や表面的には優しい大人達を思い浮かべては、皆を裏切る自分はなんて薄情な奴なんだと自分を責めるのです。この部分は人間の弱った心が正常な判断を妨げる様をリアルに描けていると思いました。つまり脱走なんてうまく行きっこないこと、そしてうまくいかなかったら大変なことになるようなことを企んでいる自分を、自分でごまかしてしまうための心の防御反応なのです。
私は特別な事件に巻き込まれなくても誰しもがこのような精神状態に陥る可能性があると思っています。例えばドイツに来る前日系メーカーで働いていた時、高圧的な部長の下に仕える5、6名の課長達は皆いつも終電近くまで残業していました。マネージャが遅くまでいると、当然部署全体が残業体質になります。こんな働き方おかしいって、どうしてどの課長も言い出さないのか。みずうみを読んで、当時感じていた違和感を思い出しました。そんな会社は辞めればいいと言う人もいるでしょう。実際私は辞めました。勢いだけでシンプルに決断できたのでラッキーだったんです。でも課長っていったら皆40歳はとうに過ぎていて転職は難しい立場です。仮に転職できたとしても待遇は確実に下がるでしょう。辞めたら家族はどうなる?自分がもし課長の立場だったら果たして辞める決断ができただろうか?
「自分が辞めたら会社はどうなる?」「いい歳こいて考えるのは自分のことだけ?」「こんなにやりがいのある仕事なのに」「あんなに親身になってくれる部長を裏切るのか?」
読後に一つ思い当たったのは、上記のような言うなれば"社会に誘拐された”人は為す術なく立ちすくむのだろうけれど、そんな時でも体の中に色んな物語のストックがあればあるほどいいのだろう、ということです。誰かに相談なんかするより、病院に行って薬をもらうより、いつか読んだ小説を思い出すことが自分に力をくれることもあるのではないでしょうか。「誘拐されるってどういうことか分かる?」って記憶のどこかのその声が心のなかで響けば、自分が自分でいるための根本的な力が湧いてくるように思います。
インターネットを開けばうんざりするほど文字があふれる今の時代になぜわざわざ小説なんか読んでいるのかふと考えてしまうことがあるけれど、今回ささやかなヒントを得られた気がしました。よしもとばななより文章がうまい小説家は世の中にたくさんいるのにも関わらずファンが多いのはきっと小説の持つ力を彼女自信が信じているからです。