今年の夏休みは昼間に引っ越し作業をして、夜はビールを飲みながらこの小説を読むのが楽しみだった。
大江健三郎には知的障害の息子がおり、彼との共生の体験を元に書かれた小説らしい。小説に出てくる赤ん坊は息子の大江光と同じ脳ヘルニアである。大江光は障害を持ちながらも作曲家として活躍することになるけれど、まだ生まれたばかりの赤ん坊の時、医者から障害の詳細を知らされた大江健三郎は、人生で最初で最後の"体が動かなくなるほどの絶望"を味わったという。(ベッドに突っ伏したまま20分くらい金縛りの状態になったとのこと)。
本書はそんな絶望の最中で書かれた。後に自身で語っておられるが、最終的に赤ん坊の手術が成功し退院するという筋書きはどうしても譲れなかったようだ。それは息子の明るい将来を願う書き手自身の希望そのものだった。
しかし僕自身は読みながら「そんな単純な話なのだろうか?」という思いが頭をもたげた。というのも、小説中の赤ん坊は生まれたばかりの時に既に医者から「すぐに死んでしまうか、一番良くても植物状態として生きることになる」と宣告を受けているからだ。そんな赤ん坊に無理矢理手術をして生き延びさせるのは、人として全うなのだろうか?そんなことをすれば子も親も文字通り忍耐の人生を生きていくことになるが、そこに敢えて立ち向かっていくのが本当に大人になるということなのだろうか。
事実この小説の結末は"軽率なハッピーエンド"としてかなり批判を受けたようだ。(最も著者は上記の通り、批判を覚悟でそのように書いたのだが)
障害があってもなくても生きていくことが辛いのは皆同じなのだからどんな赤ん坊にも延命治療を施すべきだ、という考え方は流石に乱暴だと感じる。一方で生きるのに苦労するから障害者は皆生まれてこない方が良いと考える社会は異常だ。
主人公が本当にはどう振る舞うべきなのか小説を読み終えても遂に結論は出なかった。ただ一つ確かなものを感じたのは、主人公が赤ん坊の人生を引き受けると腹をくくるシーン。赤ん坊を衰弱死させて面倒から逃げ切っても、その先の自分の人生は偽りだらけの意味のないものになると思ったときに彼は、赤ん坊の命を手術で救うと決める。この判断の是非はともかく、「ただ自分自身が生き延びるために生きる人生」の空虚さに比べたら、問題を抱えて正直に生きる(例えば、脳みそが飛び出した赤ん坊と共に生きる)ことくらい大したことではないのかもしれない。