ぷかぷかドイツ日記

ぷかぷかドイツ日記

2018年にドイツに移住したチンピラのぷかぷか日記です。

ゆっくり時間をかけて進んでいく

 ドイツ含む欧州では本格的にコロナ感染の第二波がやって来て、会社の決定で今週から週に1日か2日しかオフィスに入れないことになった。年末に日本に帰国できたらいいなとか思っていたが甘かった。もうそんなレベルじゃない。近隣のフランクフルトも感染者の多い”ホットスポット”になってしまっていて、いつまた政府から追加措置が発表されるかという状況になってきた。
 驚くべきことに知り合いの日本人の駐在員達はそれでも年末に帰国しようとしている(!) 渡航後14日間の隔離と日本在住の方々の反感を買うリスクを覚悟の上で。まあ、気持ちはよく分かる。年末を逃したら次にいつ日本の家族に会えるか分からないからね。
 
 ずっと家にいると、考えなくてもいいネガティブなことを考えてしまうのがつらい。理由もなく自分が責められているような気分になることがある。そんな時は「騙されるな、俺はちゃんとやるべきことをやっている!」と頭の中で叫んで、自己肯定の気持ちを持ち直すようにしている。そして大事なのは無理はせずできるだけ淡々と過ごすこと。時間が止まってしまったような毎日でも健全にエネルギーを発揮してさえいれば、ちゃんと前進しているのだから。
 会社で受けさせてもらっていた週1のドイツ語レッスンもコロナのせいで完全にストップしてしまったけれど、独学で少しずつ勉強を続けている。週に2、3時間程度しか時間が取れないから成長なんてほとんど(というか全く)感じられないけれど、「焦らず一歩一歩進む」と腹を決めてしまえば勉強は本当に楽しい。勉強に限らず人間関係でも何でもそうだが、ゆっくり時間をかけて変わっていく(形になっていく)のは何よりも楽しいことだ。
 
 最近ホームオフィスの環境をちゃんと整えようと思い立ってドッキングステーションを導入してみたら超便利! 既に使ってる人も多いと思うけど、ケーブル一本でPCを電源やモニター、キーボードなどあらゆるデバイスに繋ぐことができるアレです。PC2台持ちの場合、USB分離器を介せばボタン1つで使用するPCを切り替えられるので超快適。自宅勤務中の会社員の多くは自宅用と会社用でPC2台持ちになったはずなので、まだの人は導入しない手はない、はず。

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 あと今まで使ってた安物掃除機が壊れたので、めっちゃ高かったけど奮発してダイソンのワイヤレス掃除機も買った。これも軽くてめちゃめちゃ使いやすい。前から欲しかったのでうれしい~

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映画)ジョーカー__トッド・フィリップス__2019

wwws.warnerbros.co.jp

 『バッドマン』のヒール役である”笑う殺人鬼ジョーカー”が如何にして誕生したのか、その経緯を描いた作品。話題になっただけあって、ものすごかった。めちゃくちゃ残酷でびっくりした。。

 主人公は売れないコメディアン。いつか大きなステージに立つことを夢見ながら、アルバイトの収入で暮らしている。彼の”人生の目的”は「人々に笑いと喜びを届けること」。しかしちょっとした不運が重なり仕事を解雇され、しまいには地下鉄内で揉め事に巻き込まれた際同僚からもらった銃で乗客を撃ち殺してしまうーー

 ジョーカーの衣装デザインもアメリカの街並みも色彩が冴えわたっていて、とにかく映像がかっこいい。

 アメリカの貧困層と富裕層の対立をテーマにした社会性の高い内容で、仕事柄ピエロの格好をしている主人公がそのままジョーカーの姿に変貌していく辺りはバッドマンの原作コミックとは異なったストーリーになっている。(原作で描かれるジョーカーの起源は、工場の中でバッドマンから逃げ回っている時に、化学溶液の中に飛び込むというもの。そして顔の皮膚がはがれ、口が裂け、あの顔になった。)

 2012年にジョーカーに影響を受けた銃乱射事件が発生したせいで(オーロラ銃乱射事件 - Wikipedia)、本作も2019年の公開当時非常に警戒されたようだ。売れない道化師が社会から見捨てられ、狂気を抱いたジョーカーに顔も心も変貌していくというオリジナルのストーリーは社会への問題提起なのだろう。実際本作でも、爆破予告が届いたために上映中止となった映画館もあったらしい。物語の力というのは凄まじいものだ。

本)コンビニ人間__村田沙耶香__2016

コンビニ人間 (文春文庫)

コンビニ人間 (文春文庫)

 

 社会との接点はコンビニのバイトのみ、という状態でずっと生きてきた独身女性の話。そのまま30代後半に突入した彼女は周囲の人間達から恋愛や就職の経験がないことを責め立てられる。言うなれば、普通の人間達からの同調圧力がこの本の主題だ。

 

 でも良く分からないのだが、この主人公が周りから言われているようなこと、つまり「男は働いて家族を養って当たり前、女は結婚して子供を持つのが当たり前。それに当てはまらない人間は欠陥品」という同調圧力は今もなお現代人に(わざわざ小説のテーマにすべきほどに強く)かかっているのか?? かくいう僕も独身だけど、そんな圧力は全く感じない(鈍いだけかもしれないが)。というか逆に、今は日本人でも「結婚なんてしたくない」と堂々と発言する人も出てきたし、生き方の多様性を社会が認知し始めているように感じるのだけれど。というわけで、主人公が周りから責め立てられる部分の描写は正直少し時代錯誤の印象を受けた。

 

 一方、中村文則のあとがきで面白かったのが、現在は文芸業界でも最後に赤ちゃんが生まれて丸く収まるパターンの物語が量産されているという話。(彼はそのような結末を皮肉を込めて”ベビーエンド”と呼んでいるそうだ。うまい。)時代が変わったとはいえ未だ多くの人が、結婚して子供が生まれてこそ感動的な人生、という思い込みを持っているのかもしれない。そのことを口に出す、出さないの差はあっても。

 

 この本がベストセラーになったということは、主人公と同じような生きづらさを抱えている人が日本に大勢いるということなんだろうか。世界中で翻訳出版されているらしいけれど、個人主義が強い国では理解されないのではないかと思う。

 

※あ、この小説自体は大変読みやすい文章で書かれており、随所に冴えたセリフ・心情描写があり、飽きずに最後まで楽しめました

映画)フレディ・マーキュリー:キング・オブ・クイーン__ジョーダン・ヒル__2018

 

 イギリスのロックバンド「クイーン」のドキュメンタリー。ボーカルのフレディ・マーキュリーの生涯――ザンジバルで生まれ、HIV合併症で45歳の若さで亡くなるまで――をライブ映像と彼をよく知る人々へのインタビューを交えて振り返る。

 

 フレディ・マーキュリーといえばロックでワイルドなイメージだったが(僕には)、実は内気で繊細な彼の性格がよく分かる。

 
 印象的なのは、彼がバイセクシュアルであることをカミングアウトできずに思い詰めていたというエピソード。結局彼の性的指向はHIV感染を招いてしまう結果となるのだが、自身の病についてもバンドのメンバーにすら死の直前まで明かすことはなかった。本作では、性的マイノリティが70年代の音楽シーンでどのようにとらえられていたか、またHIV感染が深刻な社会問題となっていた当時の囲気を感じることができる。
 
 LGBTについて良く語られる昨今だが、その実際のとらえられ方は国や世代によって未だに大きな差があるように感じる。聞いたところによると例えばオランダではカミングアウトを受けたとき、"眉ひとつ動かさない"ことが紳士・淑女の態度だとされているらしい。まさにリベラルの誇りといった感じで、本当に素晴らしいと思う。

映画)誰のせいでもない__ヴィム・ヴェンダース__2015

www.transformer.co.jp

 
 本作はヴィム・ヴェンダースの結構最近(2015年)の映画で、なかなか良かったです。
 
 舞台はカナダの田舎町。ある日主人公は雪道を運転中に、ソリに乗って飛び出して来た小さな子供を轢き殺してしまう。それは実際タイトルの通り"誰のせいでもない"事故だったが、その日を境に主人公はもとより、その恋人、また事故で亡くなった子供の母親は絶望の中をさ迷うことになる。心に深い傷を負った登場人物達が、痛みを引きずって生きていくその後の12年間を描く。
 
 僕はもともと「何かが永遠に続く」ということが怖い。交通事故で子供が死んだら、加害者はずっと加害者のままだし、被害者はずっと被害者のままだ。我々は一度起きたことはもう二度と元には戻らない残酷な世界を生きていて、そしてそんな不幸な出来事に限って何の前触れもなく起きたりするものだ。
 
 人間関係でもそう。不用意に何かを言ってしまえば、言われた側の心に永遠に影を落とすかもしれない。本当に怖いのは人に自分が傷つけられることではなく、自分が人を傷つけてしまう事だ。この映画を見て改めてそう思った。
 
 ちなみにこの映画の原題は『Every Thing Will Be Fine』と邦題とは違ってポジティブなもので、登場人物達は長い時間をかけて絶望から這い上がり、それぞれの人生を生きていく。その様も中々見ごたえがあります。
 
 ヴィム・ヴェンダースは『パリ、テキサス』を見て以来好きになった監督だが、彼がデュッセルドルフ出身ということは実は今日Wikipediaを見るまで知らなかった。デュッセルドルフは古くから日本人コミュニティが存在する街で、彼は小津安二郎のファンを公言しているし割に日本に馴染みが深いのかもしれない。
 
 ヴィム・ヴェンダースは写真家としても活動しているようで、ネットでちらっと見てみたらまるで自身のロードムービーに出てきそうな風景写真がいくつか出てきた。ベルリンとかで写真展を開いているようなので、いつか行ってみたいな~

変わりゆく自分と今の率直な気持ち

 先月引っ越したばかりで家にまだ洗濯機がなかった頃、初めてコインランドリーに行ってみたのだけれど、案の定表記がドイツ語で使い方が分からなかった。そこですかさず洗濯が終わるのを待っている人のところに行って「英語は話せますか?使い方を教えてくれませんか?」と訊いた。こういう時に少しずつ性格が変わりつつある自分に気がつく。以前の自分ならきっとそんなことはしない。こういう局面では引っ込み思案になるタイプだから。
 この変化の理由として英語が上達してきたのもあるけど、ドイツではこういうインタラクションはごく自然な事だと分かってきたのが大きい。外を歩いていると「駅はどっちですか」とかよく訊かれるし、カフェで隣に座った人と会話が始まることもある。とにかくインタラクションが多い。パン屋でパンを選んでいるときに、はしごに登って何やら作業中の店員に「これ、そこのゴミ箱に捨てて」とゴミを渡されたこともある。(僕がゴミ箱の横に立っていたから。) 捨てたは捨てたけど、一瞬「はっ!?」と固まった(笑) もし日本で客にそんなことをさせたらクビになるよ(笑) つまり、ここでは皆がオープンに関係しあって生きているのだ。良く言えば助け合っているし、悪く言えば迷惑を掛け合っている。
 その日僕が話しかけたのはシリア人で、快くランドリーマシンの使い方を教えてくれた。僕は洗剤を持っていなかったが、彼のを分けてくれた。洗濯が終わるまで2人でいろいろな話をした。レバノンの爆発事故の事やドイツ語の勉強方法について、この町にあるおすすめレストラン、等々。彼は僕とほぼ同世代で、母国に家族を残して単身出稼ぎに来ているようだった。彼は日本人と初めて話したらしく、僕のパスポートを羨ましがった。シリアのパスポートでは一部主要国に入れないからだ。パスポートを見せてやると、感心したようにしげしげと眺めていた。お礼をしないといけないのは僕の方なのに彼は缶ジュースまでおごってくれた。その日はとても暑かったので、一気に飲んでしまった。(知らない人にパスポートを見せたり、もらったジュースを飲んだりとかは本当はしない方がいいのだけれど、この日は例外)。洗濯が終わったら飯に行こうと誘われたのだが、予定があって行けなかったのが残念だ。
 ドイツに来て2年、度々このような親切に助けられてきた。特にアジアや中東からの移民は本当に良くしてくれる。縦列駐車で手こずっているとき、通りに面した店から走って出てきて駐車を代わってくれたトルコ人もいた。苦労を味わっている移民同士の絆のようなものも少しあるのかもしれない。今となっては僕自身もここでサバイバルしている全ての移民をリスペクトしているところがある。いくらドイツが寛容な国と言ったって、社会情勢が悪化すれば直ちに移民にしわ寄せが行く厳しい側面もあるのだから。その上言葉の問題もあるのにこの人達は皆よくやっているなぁと思う。
 
 ところで、前のアパートの鍵の引き渡しも完了してようやく強制退去事件は一件落着となった。最終的にはオーナーにきちんと挨拶(謝罪)をして、後腐れなく終わった。
 
 今年の夏もたくさんのビールを飲んだ。自分の体をあちこち触るとなんとなく柔らかいというか、気持ちいいというか、「ああ、この辺はビールなんだな」と思う(やばい)

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本)個人的な体験__大江健三郎__1964

個人的な体験 (新潮文庫)

個人的な体験 (新潮文庫)

  • 作者:大江 健三郎
  • 発売日: 1981/02/27
  • メディア: ペーパーバック
 

 今年の夏休みは昼間に引っ越し作業をして、夜はビールを飲みながらこの小説を読むのが楽しみだった。

 大江健三郎には知的障害の息子がおり、彼との共生の体験を元に書かれた小説らしい。小説に出てくる赤ん坊は息子の大江光と同じ脳ヘルニアである。大江光は障害を持ちながらも作曲家として活躍することになるけれど、まだ生まれたばかりの赤ん坊の時、医者から障害の詳細を知らされた大江健三郎は、人生で最初で最後の"体が動かなくなるほどの絶望"を味わったという。(ベッドに突っ伏したまま20分くらい金縛りの状態になったとのこと)。

 本書はそんな絶望の最中で書かれた。後に自身で語っておられるが、最終的に赤ん坊の手術が成功し退院するという筋書きはどうしても譲れなかったようだ。それは息子の明るい将来を願う書き手自身の希望そのものだった。

 しかし僕自身は読みながら「そんな単純な話なのだろうか?」という思いが頭をもたげた。というのも、小説中の赤ん坊は生まれたばかりの時に既に医者から「すぐに死んでしまうか、一番良くても植物状態として生きることになる」と宣告を受けているからだ。そんな赤ん坊に無理矢理手術をして生き延びさせるのは、人として全うなのだろうか?そんなことをすれば子も親も文字通り忍耐の人生を生きていくことになるが、そこに敢えて立ち向かっていくのが本当に大人になるということなのだろうか。

 事実この小説の結末は"軽率なハッピーエンド"としてかなり批判を受けたようだ。(最も著者は上記の通り、批判を覚悟でそのように書いたのだが)

 障害があってもなくても生きていくことが辛いのは皆同じなのだからどんな赤ん坊にも延命治療を施すべきだ、という考え方は流石に乱暴だと感じる。一方で生きるのに苦労するから障害者は皆生まれてこない方が良いと考える社会は異常だ。

 主人公が本当にはどう振る舞うべきなのか小説を読み終えても遂に結論は出なかった。ただ一つ確かなものを感じたのは、主人公が赤ん坊の人生を引き受けると腹をくくるシーン。赤ん坊を衰弱死させて面倒から逃げ切っても、その先の自分の人生は偽りだらけの意味のないものになると思ったときに彼は、赤ん坊の命を手術で救うと決める。この判断の是非はともかく、「ただ自分自身が生き延びるために生きる人生」の空虚さに比べたら、問題を抱えて正直に生きる(例えば、脳みそが飛び出した赤ん坊と共に生きる)ことくらい大したことではないのかもしれない。