戦後沖縄史・生活史を専門とする社会学者、岸政彦によるエッセイ。社会学者といっても岸氏の場合アカデミックの温室の中でぬくぬくやっているような方では全くなく、研究のために被差別部落や性的マイノリティ、やくざの絡むアングラな現場まで自分で出向いて取材している。本書ではそんな著者が見聞きしてきたこの世界の断片──どうにも分析・解釈できず研究からはみ出してしまった諸々──をテーマを統一せず思いつくままに言葉にしていく。「普通の人間」など存在しない、「人のあるべき姿」という虚像に縛られる必要は無いのだと、そう実感できる本だ。
印象的だったのは20世紀アメリカ人作家のヘンリー・ダーガ―についての文章。ダーガ―は今でこそアウトサイダー・アートの巨匠と呼ばれ有名になったが、生前は貧しい清掃作業員に過ぎなかった。なぜ彼が死後今ほど有名になったかというと、アパートの管理人がダーガ―の死の直前に彼の著作『非現実の王国で』を彼の部屋で偶然発見したからだ。驚くべきことにそれは1万5千ページを超える世界最長のファンタジー小説だった(もちろんただ長いだけでなく、その芸術的価値も高いものだった。)。幼い頃大人達に虐待を受け成人してからも周囲に変人扱いされていたダーガ―は、誰にも口外することなく、狭いアパートで60年間にわたって一人きりで作品を作り続けていた。そしてそれはそもそも誰かに読まれることを意図されたものではなく、彼が生きるための場所として創造された”もう一つの世界”そのものだった。膨大なガラクタが積み上げられた部屋の持ち物の処分について管理人から問われた際、ダーガ―は「捨ててくれ」と答えたそうだ。