脱力系ぷかぷかドイツ日記

脱力系ぷかぷかドイツ雑記帳

ヘッセン州の田舎町でデジカメの開発してます

人生の雨宿り

 先日不意に、とある恋愛映画を観ました。金曜の夜仕事から帰ってきて映画でも見ようかと思いAmazonプライムビデオをだらだらスクロールしていたら、その映画の広告サムネイルがなんとなく目に留まったので、あらすじや監督名には一瞥もくれずにいきなりレンタルのボタンを押したところ恋愛(及び青春)映画でした。(疲れていたのでどうでもよかった)

 筋を簡単に言ってしまえば、陸上のスター選手の女子高生がある日練習中に怪我をしてしまい、絶望してふらふらしていたのだけれど、雨宿りのためにふと立ち寄ったファミレスの店長の何気ない優しさが心に沁み、冴えない中年のおっさんであるにもかかかわらずその人に恋をし、そのファミレスでバイトを始め、挙句の果てには告白までしてしまう、という話です。すごくいやらしい話ですね。案の定歳の差が障害となり、告白した方もされた方も悩みまくった挙句、結局二人はうまくいきません。でも映画のラストに向けて(酒のせいか)不覚にも少し引き込まれてしまったのですが、二人は心を裸にしてぶつかりあったおかげで吹っ切れ、憑き物が落ちたような心持ちで互いの日常に帰っていき、女子高生は再び陸上の夢を、おっさんの方は忘れてかけていた小説家の夢を追いかけ始めます。

 この映画には”人生の雨宿りの物語”というコピーがついていて、絶妙だと思います。本来いるべき場所(もしくはいるべきか迷っている場所)から一人でぽつんと何らかの事情ではぐれているとき、そこで過ごすつかみどころのない時間は逆に忘れがたい記憶になる。

 小説家の遠藤周作は若い頃大学に嫌気がさして足が遠のき、その代わりに毎日湘南に行って海辺で聖書を読み続けたエピソードをあるエッセイにつづっています。私はその話を大学受験の時に読んで感動しました(タイミングが悪い)。未だに度々思い出す程です。もちろんそんなことをしても何かが変わるわけではないのだろうけれど、その行為自体に胸を打つものがあります。彼にとってもわざわざエッセイに書くぐらいには、印象的な記憶なのでしょう。

 私の”雨宿り”の時期はフィリピン留学時代かなと思います。30歳の時日本の職場に嫌気が差し気が触れたように会社を辞めて、フィリピンのセブ島に渡り、語学学校で8か月間英語の勉強をしました。英語を身に付けて今度は海外で働きたいと思っていました。このように旅行や勉強のために人生の節目で設ける空白期間を”Gap Year”と呼び欧米では珍しくないらしいですが、日本人には馴染みが薄いですし、現に日本での再就職も視野に入れるなら私のしたことは大きなリスクです。(履歴書に空白期間があるとまずいという例のアレです。本当にくだらない。)

 セブ島での生活は昼間に学校の授業に数時間出席する以外にやるべきことは特になく、気楽で自由な反面、留学後に対する不安を抱えて過ごしました。また英語の勉強も本腰入れてやるのは初めてだったし、何よりそれまでの長時間労働から唐突に解放されたことによるあのふわふわした感じはこれまでに経験したことがないものでした。観光をするほどの貯金もなかったため、バカンス目的で来ている学生達とは距離を置いてつきあい、毎日淡々と英語の勉強をしていました。現時点から振り返ってみると、セブ島にいた間の記憶にはぼんやりと霞がかかっているような感じです。留学生や先生達とどんな話をしたのか上手く思い出せない。その割にセブ島の雑多な街並みは異常な程に鮮明に記憶していて、目を閉じれば即その場所に戻ることができる気がする程です。滞在中のセブ島はちょうど雨季で、良く煙草を吸いながら雨が止むのを待っていました。記憶の中で喫煙所の軒下に立ちまっすぐに叩きつけるスコールを眺めれば、当時どうにも振り払えなかった不安もありありと蘇ってきます。

 そして今私がいるのは冬本番の中央ドイツ、常夏のフィリピンとは対照的に最低気温-20℃の白銀世界です。熱帯特有の生暖かいセブ島の空気は、前世の記憶のように一層非現実的なものに思えてきます。自分でも驚いたのだけれど、フィリピン時代の写真を探しても一枚も見つけられなかった(笑)何枚か写真は撮った気がするから、SDカードをセブ島に忘れてきたのでしょうか。

あけましておめでとうございます

 あけましておめでとうございます!

 せっかくの冬休み(なんと、16連休)もビザの更新手続き中のためドイツ国外に出ることができず、自宅のアパートで一人粘り強く過ごしています(笑)いろいろな家具を買い揃えたり、読みたかった本を読んだりできているので丁度良いんですけどね。ビザの更新が予定通りに行けばブルーカードを今月末には取得でき、その後4年間のドイツ居住と就労の権利を得ることができることになっています。

 年末の30日には、家の近所のクラブがその日限りで閉店するということで、会社の同僚に誘われて行ってきました。やはり最後の日ということもあって大勢の人が駆けつけたようで、入場ゲートには長蛇の列ができており、中に入れるまで約1時間半待ちました。案の定フロアは超満員で若者達が踊り狂っており、午前1時を回ってからは音楽も酒も踊りもフロアが一体となって勢いを増していくようでした。男も女も体が大きいことを除けば、日本のクラブとそれほど違わない雰囲気です。この日私も存分に楽しむつもりだったのに(いや実際楽しかったんですが)、爆音の中でふと、フロアで踊る若者たちを少し冷めた目で見ている自分に気が付き、あれ俺はどうしちゃったのかな、と思ってしまいました。学生時代、自分も渋谷や六本木で同じようなことをやっていたのに、もう懐かしい幻のように思えてくるのです。今やいい年こいたおっさん(33歳)なので自然なことかもしれませんが、近頃こういうことが増えました。。

 これと関連して、昨日偶然Webで見つけた茂木健一郎氏のブログ記事のリンクを張っておきます。唐突に思い立って、大みそかに一人でフルマラソンを走ったという記事。

lineblog.me

これ、正直胸を打たれました(笑)こういう途方もないエネルギーをもって訳の分からない(?)ことをする事(人)が私は昔からすごく好きなのです(笑)さらに中年のおっさんがやるんだから、最高にかっこいいですね(笑)そして、一見すると彼はふざけているだけのように見えるけれど彼自身の方法で、私がクラブで感じたことと同じ問題と戦っている、と感じました。その問題とはつまり、年齢と共に生きることの手ごたえが薄れていくこと(とでも言えば伝わるだろうか?)。

 若いころは自分がいつか大人になることが信じられなくて、将来なんてどうでも良過ぎて、だからこそ死がもっと身近で、常に死に意識的で、それこそクラブやらカラオケやら行った日には、それはいわゆる”遊び”なんていう生易しいものではなかったように思います。生きていることがリアルで、ひりひりとするような、あの感じ。なんならその場で、くだらない馬鹿みたいなことが起きて死んだとしても関係ないじゃないか、とそれくらいには刹那的だった(笑)(そして実際に流血やら器物破損やらが頻繁に起きました。)それがいつのころからか、仕事を始めてからなのか、明日に影響が出ないように今日一日を無難にやり過ごすスタイルに変わっていったのだろうと思います。仕事にはベストを尽くして確かに頑張ってはきたけれど、突拍子もない発想は生活の中で出てこなくなったし、感動することも減ってきた気がしています。同じような毎日がこれからも続いていくと思うと、なんとなくそれが恐ろしいことのように感じる時もあるほどです。こんなことを考えているのは、今平和な生活を送れている証拠かもしれないけれど、、

 茂木氏の記事にヒントを得て、とにかく2019年は少しずつマインドを変えて非日常的行動を生活に取り入れていく必要があるのだろうと、今はぼんやりと思っています。キーワードは“衝動“ですかね(変な目標ですが笑)。

 今年もよろしくお願いします!

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クリスマスマーケット

 私が勤務している田舎町でもクリスマスマーケットが始まり、一昨日同僚達と一緒に行ってきました。その名の通り飾り付けられた通りに様々な出店が並ぶのですが、ドイツ人がやることと言ったらクリスマスでも特に変わることはなく、酒を飲みながらだらだらと話をするだけです。ドイツ人はとにかく話好きで、それも外で酒を飲みながら話すのが好きなようで、夏はビアガーデンに昼ごろやってきて、隣に座った知らない人とそのまま夜まで話続けます。(この町は田舎だから、特にそのような傾向が強いのかもしれません)。一昨日も大勢の人で賑わっており、その多くが外で飲んでいました。ここ数週間で大分冷え込んできていて息が白くなるほど寒いのにも関わらず、頑なに外です。設備としては風よけのテントがぽつぽつとあるくらいのものです。この時期の名物となっているのがグリューワインと呼ばれる香辛料を加えた温かい赤ワインで、普通のワインより度数も少し高いらしく、飲んでいるうちに体がぽかぽかとしてきます。これを飲みながらひたすら寒さを無視し続けるのです。一方で、この寒さこそがこのイベントの魅力の一つでもあると感じました。会場全体に装飾用電球がたくさん取り付けられており、金色の光が乾燥した空気の中でシャープに飛び交い、パソコンの見すぎで疲れた目には、はっとするほどにきれいで、グリューワインが回った頭は終始ぼおっとして(4杯飲んだ)、温かいやら寒いやら(4時間も外にいたらさすがに寒かった)、とにかく夢を見ているような気分になるからです。

 今週は取引先の日系半導体企業からエンジニアの方々に職場に出張に来て頂いていたため、クリスマスマーケットにもお誘いし、彼らと腹を割った話ができました。出張メンバーの中には現在市場を席巻しているあるLSIのまさに生みの親(の一人)である経験豊富なエンジニアもおられました。彼がぽろっと、日本メーカーが海外に工場を手放してきたことは長い目で見れば致命的な失敗だ、これから日本の技術は落ちていく、と言ったことが印象的でした。私も同意見です。製造現場から離れると、エンジニアにとってデバイスがブラックボックス化していくのです。その反面、一つのデバイスに詰め込む機能は多様化・複雑化し、設計者の仕事は増える一方です(彼が設計したLSIは今や、その仕様書は8000ページを超えている!)。設計者は仕様の理解に追われ、頭の中だけでものをつくり、手を動かさなくなっていきます。驚くべきことに半導体企業といえども若手設計者はクリーンルームに入ったこともない人がほとんどらしい。もう今はそんな時代です。

 出張者の一人に、何故ドイツに来たんですかと聞かれたのですが、この質問には毎度うまく答えられず、困ってしまいます。外国の小さな町で一人で働いて暮らしていくことに本当はどんな意味があるのか。そんなことやってみなきゃわからないと思っていましたが、やってみても分かりませんでした(笑)。ただただ静かで何もない毎日が過ぎていくだけです。不安や感動や興奮とは無縁です。そして持て余すほど、時間に恵まれています。まだこっちに来て4か月ですが、全てがスローな自分の性格には合っているのかもしれません。手ごたえを得るためにもっと長い時間が必要、という気がします。

 来年一月には日本出張を予定しており、楽しみです。久しぶりに日本に帰れるということもありますが、取引先の方が大相撲観戦に招待してくれるらしいからです(笑)

 

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職場について

 この頃ようやく仕事に慣れてきて、担当している案件も大方順調に進んでいます。ついこの間までは日本人がただの一人もいない職場で働くなど到底不可能なことのように思えていたのですが、今ではミーティングの仕切りすらやっており、人間の適応力ってすごいですね。英語のリスニング力も大分伸びてきている。でもたまに、家に帰って一人でいる時やバスでの移動中などに、いつまでドイツ生活を続けていけるのだろうかという考えが、ふと頭をよぎる瞬間があります。何かのきっかけですぐに駄目になってしまう気がして、、。このぼんやりとした不安は海外で暮らす人は皆感じているのでしょうか。なるべく先のことを考えないように気を付けながら、目の前の仕事に集中しています。

 私が勤務している会社はドイツ系の電子機器メーカーですが、商品に搭載されているデバイスは驚くほどに日本製が多く、例えば画像処理プロセッサ、各種センサ、液晶ディスプレイ、記録メディア等のキーデバイスはどれも日本製です。私は半導体集積回路や画像処理を専門とするエンジニアですが、上記の事情から日本メーカーとの技術交渉の窓口としての役割も任されています。というのも、海外メーカーからすると日本メーカーはとてつもなくとっつきにくいのです。それは日本人(のエンジニア)が英語が苦手なことや、日本特有のはっきりとものを言いたがらない文化によるところが大きいようです。現職場の資材部は、これまでに幾度となく日本メーカーへのコンタクトに失敗、又は交渉が難航した経緯から、有望なデバイスを見つけてきても、それが日本製であることが判明すると落胆の表情に変わります、、(これからはそんな時が来たら私の出番です。)しかしながら上記の困難を承知の上でなお、海外企業が日本のデバイスを使おうとするのは、一重に日本の技術力が素晴らしいからです。日本のものづくり品質が海外から評価されていることは、ドイツに住んでいるとひしひしと感じますし、そのことは私も日本人として誇らしく思います。ただそれ故に、内に閉ざされた開発環境がもったいないとも思う。(日本の半導体技術の躍進はこの鎖国的状況が追い風になった部分もあるとは思うけれど)

 先日もある日本メーカーから5名ほど技術交渉にはるばるドイツまでお越し頂きました。現在あるキーデバイスの生産委託をさせて頂いているメーカーで、実は私が日本時代に勤務していた会社です。しかも内1名は同じプロジェクトを担当していた知り合いでした(笑)名刺を交換しながら、世界って狭いですねって、、、ばっちり競合メーカーに転職している身分なので、気まずすぎ(笑)

 その会議は日本時代の辛い記憶がフラッシュバックするような内容でした。会議中に相手方のマネージャーが、部下の若い設計リーダーに(日本語で)パワハラまがいの言動を繰り返していたからです。その設計リーダーは拙い英語でドイツ側にプレゼンを試みるのですが、まったく余裕のない様子で、見ているこちらが辛かったです。頭にあるのはその場をいかに上司の機嫌を損なわないように切り抜けるか、ということだけでしょう。マネージャーは設計リーダーのプロジェクトに対する理解の浅さ、英語の不勉強を人前で散々馬鹿にしていましたが、私はその設計リーダーは決して能力が低いわけではないと思っています。ただじっくり考える時間がないのです。英語の勉強もしたくてもできないのです。というのも、その設計者にドイツ時間の夕方にメールを出してもいつでもその日中に返信があります。時には5時過ぎに返信があるのですが、それって日本では夜中の1時過ぎだけど終電大丈夫なのか?とこちらが心配になります。時には私の方が先に帰っていて、その日中に応答できないこともあります笑(私は大体5時には会社を出るので)

 この残業文化が、日本の鎖国感と深いところでつながっている、と思います。私も日本時代この設計リーダーとほとんど同じ生活をしていました。日本メーカーにとってスケジュールは死守すべきことであり、マネージャーは部下にパワハラをしてでもやり通さなければ、自分の査定に響くのです。先の設計リーダーがどれほどの精神的ストレスを抱えているか、私にはよく分かります。

 一方で有名な話ですが、ドイツ(というかヨーロッパ)の企業は残業をしません。私の職場もそうです。皆スケジュールに対して無頓着で、というかスケジュールなどそもそもあってないようなものです。だから、残業をせずに済む。私の職場では日報や週報すらもありません。ヨーロッパには、基本的に人間は気ままなものであるということを理解する文化的土壌があると感じます。その上でそのような人間たちが集まって前例のない新しいデバイスを生み出そうとする時に、どのくらい期間がかかるかなど予測できるわけがないという共通認識の基に開発をしています。もしスケジュールを予測できるとしたら、その試みは最初からその程度のものでしかなく、本当にはチャレンジングなことをしていない、と考えるのです。だから、スケジュールが遅延しても誰も責任を問われることはありません。ドイツに来て最も日本の職場との違いを感じるのはここです。そしてこの点に関して、私はドイツの職場の方がまともだと思います。少なくともドイツ式で仕事をした方が楽しい。またエンジニアの成長という観点でも重要なポイントです。日本でくすぶっているエンジニアは、海外に出ればいいのにと思う。時間的、精神的に余裕のある職場の方が、クリエイティブなことはしやすいに決まってる!

 今の職場にいるエンジニアは、ゆったりとものづくりを楽しんでいます。普段は口数が少なくても技術の話になると生き生きとしてくる人が多く、自分に似ているなと思う(笑)職場にはドイツ人だけでなく、私のような移民が世界各地から集まっており、インターナショナルな国籍構成になっていることも、逆に人間関係のこじれが生まれず良いような気がします。そして何よりも、パワハラなんて頭の悪いことをするマネージャは一人もいません。そういう人間の自由さ、気ままさを理解しない発言をすることは、一番恥ずかしいことだと皆が理解しているからです。

 

 こちらでは毎日、まだ人のあまりいない早朝に写真の並木道を通って会社まで通勤しています。最近は大分冷たくなってきた空気の中をずんずん歩いていくと、五感が冴え渡って雑念が飛んでいくような気がします。疲れが残っているような日でも、並木を抜ける頃には今日一日を駆け抜けていく力が湧いてくる気がするから不思議です。一日の中で一番好きな瞬間です。

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語学学校

 早いものでドイツに来てもうすぐ2か月です。こちらの生活にも仕事にも少しずつ慣れてきました。ありがたいことに会社のサポートで今月からドイツ語教室に通わせてもらっています。家の近所のコミュニティカレッジで開催されている週に2回の4か月間のコースです。

 

コミュニティカレッジとは日本でいうところのカルチャーセンターのようなものです。語学だけでなく、コンピュータやビジネスを学ぶ職業訓練の講座や一般教養的な講座まで幅広く用意されています。このような非営利の教育機関が全国に数多く存在し、地域に根付いているのはドイツの良い点の一つですね。私のような移民がドイツ語を学ぼうとする場合、最初はコミュニティカレッジを紹介されることが多いようです。

 

私の在籍しているクラスは、世界中から人が集まっています。欧州各国からはもちろん、中東、アフリカ、南米からやってきた生徒までいて、まさに混沌としています。私はドイツ語はこれまで勉強したことがなかったので、レベルが一番下のクラスにいますがそれでも不思議なことに授業はドイツ語で進みます。ドイツ語の基礎をドイツ語で教えるという一見とても矛盾した状況です。ドイツ在住の知人から説明を受けて初めて知ったのですが、コミュニティカレッジでのドイツ語講座は大体どこでも英語ではなくドイツ語で行われているようで、これはもちろんドイツ語を聞くことに慣れさせるという狙いもあるのですが、多くの生徒はドイツ語を「聞く」「話す」ことは既に生活の中で覚えていることが理由らしいです。彼らは読み書きの習得だけを目的としてクラスに参加しており、私のように完全に知識ゼロの生徒の方がパーセンテージとしては低いため、授業もある程度ドイツ語が聞けることを前提としているのです。

 

ドイツに多くいるトルコ人が代表例ですが、移民の中には日本人と違って母国の経済状況や治安が悪いためにやむなくドイツに働きに出てきている人も多く、彼らはドイツでの生活が成立しなかったら帰る場所などなく、家族共々路頭に迷うことになってしまいます。そのため彼らは、仕事や日常生活の中で全身を耳にしてドイツ語を覚えていくらしいです。これはものすごいことです。なぜならそのような移民は多くの場合、母国に母国語で書かれたドイツ語の辞書や参考書は存在せず、理屈を独学で勉強することが非常に難しいというハンディキャップを背負っているからです。それでも彼らは流暢にドイツ語をしゃべっている。。。このことを知ってから、街中で見かける移民達(特に良く出くわすトルコ人)に尊敬の念を抱くようになりました。日本人は恵まれていますね、、母国語で書かれたありとあらゆる分野の参考書が手に入るというのは、国際的に見れば極めてまれです。実際周りのクラスメイトを見ても、母国語で書かれた辞書を持っているのは私を含む先進国から来た一部の人達だけのようです。もっとしっかり勉強しなくては、、という気になってきます。

 

とは言ってもドイツ語未経験の私にとって、授業についていくのが難しいことに変わりはありません。先生(もちろんドイツ人)が質問をし、生徒が答えるという形式で授業が進む場合が多いのですが、まず先生の質問が理解できない。さらに、私の日本語なまりの発音がよほど面白いのか、私が発言するたびにクラスメイトに笑われています(なぜか主にルーマニア人が良く笑う)。先の知人の奥さんがドイツ語講座を別のコミュニティカレッジで受講した経験があるようで、私と同じ問題に直面しストレスのせいか顔面神経痛のような症状が出たということでした(笑)

 

そんなわけで、日々ドイツ語習得に苦戦しています。そもそもドイツ語が生活で役立つようになるレベルって極めて高い。冷静に考えれば当たり前だけど、基本的な質問フレーズをドイツ語で覚えたとして、街中でそれを使うと、当然相手はドイツ語で返事をする。多くの場合手加減無しの本場のドイツ語を話し始めます。ということは、質問する側はそれを理解できるレベルでなくてはならない。完全ビギナーがここまで行くには相当の努力が必要でしょう。先の奥さんがその対応策として考えたのはドイツ語で質問をして、最後に「英語で答えてください」、と相手にお願いするというもの。これを実践してみると、相手のドイツ人は大変混乱するらしいです(笑)え、なんでドイツ語で聞いてきたのに英語で?って(笑)。さらに具合が悪いのは、話しかけたドイツ人が英語が話せなかった場合。こうなるともう、ただの嫌がらせですね(笑)結局その奥さんは十年以上ドイツで暮らしていますが、あいさつ程度の簡単な会話を除いてドイツ語は封印するのが一番という結論に達したようです。でもそれじゃせっかく勉強する意味がないと思うんだ(笑)。

(いやまあ、意味なくはないか、、、言葉は国の文化の一つだし、異文化体験のような感じで適当にドイツ語の勉強を楽しむのもありだとは思う。)

 

私はせっかくドイツ語を勉強するなら実用レベルに達するまでやってやろうという気で(少なくとも今は)います。英語もまだまだ勉強中だから大変だけど、気楽に気長にやるつもりです。正直自分がこんなに外国語習得にポジティブになる日が来るなんて想像もしてなかった。もう日本語しゃべれなくなりそう(笑)

 

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ドイツ到着、その後

 

7月末にドイツに到着し3週間が経ちました。今日までトラブル続きで本当に大変だった。。今日は仕事が休みなので久しぶりにリラックスしています。

 

まず、渡航直前という絶妙のタイミングで風邪を引いた(笑)おかげでバンコクで熱がある状態で引っ越し作業をするはめになりました。もともとの段取りが悪いから荷造りに追われてほぼ睡眠時間もとれず、ばたばたと大家さんとの立会いを済ませ(瀕死で)、なんとかフランクフルト行の便に乗り(瀕死で)、現地に到着した初日は瀕死の状態でした。さらに運が悪いことに今年のドイツの夏は異常気象で猛暑が続いているんです。にもかかわらず、到着したホテルの部屋にはクーラーはなく()、猛烈に暑かった(後で知ったのですが通常夏でも涼しいドイツには、ホテルにクーラーがないのは普通らしい)。寝られないほどに暑くて熱も下がらないし、どこで薬を買えるのかも分からないし、体調はますます悪化しました。ようやくドイツにたどり着いたのに、早くも死ぬところでした(笑)

 

 結局最初の1週間はずっと具合が悪くて、その後さらに心が折れそうなことが起きました。ドイツに来て2週間ほど経った頃。滞在1週目はホテルに泊まっていたのですが、2週目から会社の人事部が探してくれたアパートに入居しており、部屋の玄関口のドアはオートロックになっています。その日、外のメールボックスをちょっと見てこようと思って部屋を出た。ボックスはすぐそこだから部屋のドアは開けっぱなしでいいやと思ったんです。ところが、その意思に反して私の右手がドアを閉めた(笑)瞬間脳がフリーズし、締め出されたことに気付くまで少し時間がかかったと思います。鍵は家の中、携帯電話も財布も家の中、おまけにその時既に夜8時を回っていました。

大家さんが寝てしまう前に連絡しないと、と思い電話番号を知っているであろうこのアパートの住人に電話を貸してもらうため、一軒一軒ドアをノックして回りました。でも1階から最上階の4階まで誰も出てこなかったんです。あの時は本当に野宿を覚悟しました。階段に座って、窓の外のライトマゼンタの空(夏は白夜なので日が長い)を見ていることしかできませんでした。しかし、ずいぶんと長い間そうしているうちにふと上の階で物音が聞こえたんです。おそるおそるその部屋をノックすると、寝ていたのかパンツ姿のプロレスラーみたいにでかい兄ちゃんが出てきました(ひえっ)。最初は見慣れないアジア系の私の顔を訝しむように見つめていましたが、幸運にも彼は私の英語を理解し、大家さんに電話をかけてくれました。その時点で夜10時を回っていたはずですが、大家さんも事情を聴くとすぐさま工事業者を手配してくれたため、その30分後私の部屋のドアはプロの手によってこじ開けられることになりました(ドイツでは大家さんがスペアキーを保有することは違法らしくこのような対応をせざるを得ない)。

このようにしてめでたく野宿は回避することができたのですが、入居早々本来不要な工事代金100ユーロを支払うことになりました(笑)素晴らしいスタートですね。

※ちなみにパンツの兄ちゃんは全てが解決したとき(パンツのまま)一緒に喜んでくれ、結果的には非常に親切なナイスガイであった。

 

さらに、ベッドとテーブルをIKEAで買って配送で頼んだのですが(ドイツにもIKEAがあります)、部屋のドアベルが壊れていたらしく私が配達に気付かず配送業者が荷物を倉庫に持って帰ってしまったり(その後しばらくベッドなしの生活を強いられた)、インターネットを契約したUnity mediaのスタッフがルーターのケーブルの種類を間違えたり等、ため息が出るほどトラブル続きです。。Unity mediaのネット回線は未だ繋がってませんが、スタッフのミスなのにケーブル交換は今月末らしい。。。日本との時間の感覚の違いを感じますね。

 

今私が住んでいる町はドイツ中央部に位置するヘッセン州にあり、都会とまではいきませんが学生が多いためかにぎやかな雰囲気があります。たくさんの店や映画館などもあり便利な場所でありながら、林道や自然公園等も多くあります。今のところ会社の同僚を除いて知り合いと呼べるような人はここにはいません。多分この町には日本人もほとんどいないのでしょう。改めて遠くまできたものだと思うけれど、ここでの生活に馴染むことができたら結構すごいことだとも思うし、これからこの町を、というよりドイツ全体を駆け巡って楽しいこと見つけてやろうと思ってます。

新しい職場については、今年3月の現地面接の時に感じた通りとてもゆったりした雰囲気があり、ここなら自分のペースで働けそうだという感触です。同僚もとてもフレンドリーで、「一緒に仕事を楽しもう」と言ってくれるのがうれしいです。明日から入社3週目に突入、そろそろ仕事が本格的に始まりそうです。

 

家の近くの店が並ぶ通りにて撮影↓ 今日は年に一度の祭りだったようで、屋台とビールを飲む人で昼間からごった返していました。

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ビザ到着&タイに戻ってきました

今週頭に無事ドイツの就労ビザがパスポートとともに実家に届きました。長かった。なので一昨日、荷物を残していたタイのアパートに引っ越し準備のため帰って来ました。雇用先とやり取りしている感じだと、今月末にはドイツに引っ越しをし、勤務開始となりそうです。

 

 これまでビザ待ちで実家にいた2か月間は、毎日毎日両親と晩酌をしていました(笑)というか私が酒を飲みたいかどうかに関わらず、夕飯の食卓に座ると手の中にすっとビールの注がれたグラスが滑り込んでくるのです。毎度毎度同じことが起きて、まるで磁石のN極とS極が引き合うような普遍的自然現象のようでした。少しの間会話に気を取られて、ふとグラスに目をやると、あら不思議、ビールは必ず満タンにチャージされています。毎日の晩酌は両親にとってはこれまで連綿と続いてきた習慣のようなのですが、今回の帰省で私まで軽度のアルコール中毒になってしまったらしく、タイに戻ってきてから2日間酒を飲まずにいると体調が悪くなりました(笑)そこで先ほどからタイで有名なシンハービールを飲んでみているのですが、みるみるうちに体調が良くなってきています。この文章を書きながら目のかすみまでとれてきた。どうなっているのでしょうか(笑)

 

 最近ドイツへの渡航準備の関係でメールのやり取りをしているある方のメールアドレスに“Dreams come true”という綴りが含まれていて、大の大人のアドレスがこんなのってなんかいいなあと、その方からメールが来るたびに思っています。その方は私と同じ領域の先輩エンジニアで、実際に数々の大きな成果を上げられてきており、夢を持ってこの分野に飛び込みこれまで情熱的に仕事をされてきたのでしょう。いっそのこと私も同じアドレスにしてみようか。“Dreams come true”に対して“Dreams come true”でメールを返す。ふざけていると思われるだけですね(笑)

 

 タイは現在雨季にあたり、スコールが断続的に降り続いています。あと少しでこの国ともお別れなのだと思うと、見慣れたバンコクの街並みが胸に迫りくるようで、これまでよりもよく見えるような気がします。屋台に並んだ色とりどりの果物、だらりと舌を出して休んでいる野良犬、駅脇の舗道で歌うミュージシャン。昨日はギターを持っていないのに腕を振りながら(つまりエアギターで)歌っている少年がいました。彼はその歌で小金を稼いで、ギターを買うつもりなのでしょうか。

 

一日中誰とも口を利かず(利きたくても利く人がおらず)、雨に濡れた街を歩いてみては、喫茶店に入りC言語プログラミングを勉強する。数週間の後に始まる未知なる新生活を前に、不安混じりの期待と若干の寂寥が同居した奇妙な日々を過ごしています。

 

今はやるべきことをやろう。明日も。

Dreams come true、寝る前に唱えています(笑)

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